01大正路地
いまもなお大正時代のたたずまいを色濃く残す路地です。
土地の素封家の年貢米を納めた米蔵と、江戸時代から続く呉服屋の蔵にはさまれた路地で、蔵の白と黒のコントラストが鮮やかです。黒い羽目板は、桟をはずすと、防火壁の役目を果たしました。
02岐阜県指定文化財 金弊社八王子神社
平安時代の天暦三年(949年)に創建された千年を超える歴史をもつ郷土の産土神
天正二年(1574年)三月武田勢のために、城と共に焼かれ(戦況記録別記一号)慶長八年(1603年)十三代利景明知城再興、旧領安堵の御朱印拝受より、新たに社殿を再建した。
その後延宝四年(1676年)旗本四代遠山半九郎伊次公によつて、建築費七百両をかけて現在の社殿が造営されたのである。再建の記録が残されているが、当時としては実に豪華なもので星霜300年余を経た今日、昔の姿のままであることは、誠に驚異に値するものである。尚唐門は県の重要文化財に指定されている。また、万葉の歌人『柿本人麻呂』を祭神とする社がある。
詳細は不明であるが、伝承によれば文武の道を志す明智光秀が神社内に人麻呂社をまつり、社前に紅葉「楓」を手植えしたと伝えられる。長年の風雪に耐えかねて昭和39年枯死してしまい、現在の楓はその時に植え替えたものである。平成24年 本殿・幣殿・拝殿保存修理
住所 恵那市明智町 電話番号 明智振興事務所振興課 0573-54-2111
03龍護寺
遠山家の菩提寺である龍護寺では、遠山家累代の墓所や明智光秀公の供養塔などがあります
大永元年(1521年)ここ塔仙坊に楞厳院という草庵があり、柏庭和上が住んでいた。
この人は京都妙心寺にいたが、三河旭村の三玄寺を経て当地に落ち着いたといわれている。慶長元年(1596年)明智城主遠山利景は、城の北に浄地を選んで禅刹一宇を建立。そして楞厳院を改め龍護寺とした。
この時の和尚椽室がいわゆる中興の開山である。建立の直後、覚岩和尚が法詞をついで第一世となった。この時以来、龍護寺は代々遠山氏の菩提寺となった。光秀公供養塔
山門入口右手に、光秀公の供養塔と伝えられる碑が建っているが、光秀公に関する碑はその「悲痛な想い」でことごとく割れるといった通説の通り、斜めに大きくひび割れが入っている。
遠山家累代の墓
龍護寺の西側に、明智の旗本領主遠山氏代々の墓が十基並んでいる。遠山氏の墓が並ぶ正面に、江戸の名奉行『遠山の金さん』こと遠山金四郎の業績を称えて合祀されていると言われる墓所もある。
住所 岐阜県恵那市明智町1389-1 電話番号 0573-54-2540 その他 宗派:臨済宗
04明知城址
明知城跡(岐阜県史跡)縄張図住所 岐阜県恵那市明智町城山1318-1 その他 記念物(史跡) 明智城は宝治元年(1247年)明智遠山氏の始祖・遠山景重によって築城されたと伝えられている。天正二年(1574年)武田勝頼の大軍に襲われ落城した
宝治元年(1247年)源頼朝の重臣、加藤次景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であった。天険の地形を巧みに利用した山城で、土盛砦として保塁数大小23ヶ所を備え、原型のまま残されているのは日本でも数少ない山城として県の指定文化財となっている。(標高530m)
天正2年春(1547年)武田勝頼二万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張、遠江、駿河への拠点明知城を目指す。
城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵五百とともに之を護る。信長、事の重大さを思い明知城を授けんと、子、信忠とともに兵三万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも武田の将、山県三朗兵衛景昌千騎を以って信長の退路を断つ。信長山岳戦の不利を思い、動かずやがて兵を引く。援軍を失った明知城は落城した。宝治元年(1247年)源頼朝の重臣、加藤次景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であった。
1582年家康に従った利景は関ヶ原合戦後の慶長五年(1600年)家康の命により明智城へ戻り、慶長八年明智を本領とする朱印状を賜ることが出来た。しかし、元和元年(1615年)方景は旗本として江戸に屋敷が与えられる事になり、明智城は廃城となるが、代わりに麗の大手門近くに代官屋敷が設けられたものである。
05天神神社 伝光秀公学問所
明智光秀公が若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われている
祭神は菅原道真公であり、京都北野の天満宮からの分祀と伝えられている。北野天満宮は九州大宰府天満宮から、京都の王都守護として北野に迎えられ、天神信仰の拠点として全国に広く分祀されている。中世、武家の出現によって城下町を生み、天神神社はその鎮護とともに学問の神として信仰をあつめた。また別にヒトマル信仰として「人生まる」「火止る」「人麻呂」といった一連の縁起から柿本人麻呂を祀る民間信仰と並んで広まっていった。
万ケ洞天神神社は城山の西麓の急峻な地形の山懐にあり、山城である明智城の一郭をなす「天神砦」として、重要な戦略上の部所でもあった。
学問の神様として3月25日には祭礼が営まれている。
住所 岐阜県恵那市明智町1318-2
06お牧の方墓所
非業の最期を遂げたと言われている明智光秀公のご母堂、お牧の方の墓所と言われている
寛保三年(1743年)に建てられたこの石塔は、当時の世評を配慮してか、光秀公と同じく「南無阿弥陀如来」とだけ刻んである。
傍らにそびえる老樹・高野槇の巨木は、樹齢数百年を重ね、神木として崇拝され近郷近在の人々の厚い尊敬の信仰を集め古くから「甘酒まつり」が行われており、これはお牧の方の供養として今も続けられている。そして、入り口には日本大正村助役森省三氏の寄贈された「敵は本能寺にあり」と刻まれた石塔がある。お牧の方の悲話と明智光秀公
天正7年10月、信長公の命によって丹波攻略に向った明智光秀公に対し、八上城を守る波多野秀治は一年有余も籠城を続けた。
「もし開城を迫られるならば、波多野一族の保障と、光秀殿の母御を差し出されよ」と秀治は申し出た。光秀公の母於牧は、「平和のためならば喜んで人質となりましょう」と断腸の想いの光秀公をはげまし、従容として八上城に入った。開城降伏した波多野氏は恭順の礼を尽すため安土城に向ったが、信長公から即刻切腹を命じられた。八上城ではこの事を知り、光秀公の前で母於牧を十字架にかけて磔にした。「いかに主君といえども、母の仇は不倶戴天の仇」光秀公の心に重い澱の固まりが沈んだ。
天正10年5月、「毛利平定のため西国に発向せよ。攻めとり次第、石見、出雲の両国与える。ただしこれまで治めていた丹波と近江の志賀、高島両郡を召し上げる」という苛酷な命が信長公から下った。退路を断たれ遮二無二前へ進むしかない状態におかれた。この事が智将光秀公の誇りを無残に打ち砕いた。
『ときは今 天が下しる五月哉』出陣を前にした天正10年5月28日、愛宕参詣の夜の連歌の会で、微妙な表現で上の句を詠んでいる。
まだ光秀公の胸中は揺れていた。6月1日、軍を発した孤高の武将光秀公は老坂を登りつめ、丹波口の三叉路に至った。右すれば攝津街道を経て備中へ、左に降りれば桂川を越えて京に至る。人生は常に三叉路に立たされている。
「敵は本能寺にあり」。光秀公は躊躇なく左へ降り、桂川を渡って京に入り、一路本能寺へと向った。住所 岐阜県恵那市明智町城山1318-1
07千畳敷公園
鎌倉時代に明智城とともに築かれた「千畳敷砦(とりで)」を整備した公園
光秀公産湯の井戸
ここには、明智光秀公伝説のひとつとして「光秀公産湯の井戸」も残され風雪を経た深井戸(深さ16m)がある。
かたわらに松の古木あがり古くから「日向松」と称び伝えられ、明智日向光秀との関わりが論じられている。弥生時代の石器なども出土し早くから拓かれた土地でもある。
千畳敷砦
明智城主が宝治元年(1247年)に築城された頃、西南の方角に当たる千畳敷台地は戦略上、重要な地点として砦を築いたと伝えられている。
山の上から南北街道を一望に見下ろせるこの砦は、いざ戦いとなればたちまち明智城の前線基地となり、戦国時代の天正年間には遠山家の一族、串原五郎経景がこの砦を(落合砦とも言われる)守ったと伝えられている。住所 岐阜県恵那市明智町後山
08大正村浪漫亭
旧いけれど新しい... レトロモダンな大正村浪漫亭
玄関に入ると薪ストーブがお出迎え。1階にはカフェ・ショップがあり、2階にはレストランがあります。レトロモダンをコンセプトにデザインしたものでジャズが流れる蓄音機や街灯がモダンな雰囲気を醸し出しており、ゆっくりと流れる時間をお過ごしいただけます。
大正時代を知り、見て、味わい、楽しめる場所として、2016年10月27日にリニューアルオープンしました。住所 岐阜県恵那市明智町456番地 電話番号 0573-55-0057 営業時間 ショップ: 10:00~17:30
カフェ: 10:00~16:30 (夏期 8月・9月 9:00~16:30)
レストラン かわかみ: 11:30~14:00/17:30~21:00休業日 ショップ: 無休
(年末年始12月30日~1月1日,12月1日~3月31日の間毎週水曜日)
カフェ: 無休
(年末年始12月30日~1月1日,12月1日~3月31日の間毎週水曜日)
レストラン かわかみ: 毎週水曜日と第3火・水曜日
年末年始12月30日~1月3日