街歩き・村内マップ日本大正村街歩き・村内マップ
日本大正村のみどころ
日本大正村のみどころをピックアップしてご紹介します。

- 大正路地
大正路地
いまもなお大正時代のたたずまいを色濃く残す路地です。土地の素封家の年貢米を納めた米蔵と、江戸時代から続く呉服屋の蔵にはさまれた路地で、蔵の白と黒のコントラストが鮮やかです。黒い羽目板は、桟をはずすと、防火壁の役目を果たしました。
- 格子のある家
格子のある家
大正路地を抜けるとレトロな格子戸の家が並ぶ町並み。趣がある通りです。
- 大正村展示館
大正村展示館
無料展示場です。小さな部屋にパネルやショーウィンドウで色々な企画展示を行なっており、時期によって展示物が変わります。
- 日本大正村役場
日本大正村役場
明治39年、町庁舎として建てられたのがこの建物です。瓦葺き寄せ棟造り2階建ての木造洋館は、当時としては超モダンともいえるものでした。
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石門に街灯がつけられ、正面入り口には重厚な引戸。内部は一部ドア形式。昭和32年まで町役場として使われました。 - 絵画館
絵画館
元小学校跡で、現在は企画展示を行なっています。主に、絵画や書物といったものが展示されます。
- バラ園
バラ園
ロマン館前のバラ園が6月旬に見ごろになります。さまざまな品種のバラがロマン館をバックに咲き乱れます。
白く洋風のロマン館にバラ園が非常に良い雰囲気です。2代目村長の司葉子さんからのご提案であった「バラ園」は平成12年春から(株)ローズ・ローレス大野様の絶大なるご協力により景観部を中心としたボランティアの方々の熱意で現在は約600本・120種類余となりました。
満開時の5月初旬~6末は、観光客・町内・町外の皆さん そして写真ファンの方に大変好評です。 - 大正ロマン館 高峰・春日野記念館
大正ロマン館 高峰・春日野記念館
大正モダンをイメージをした洋風建築で初代日本大正村村長高峰三枝子氏、同村議会議長春日野清隆氏の記念館。平成6年5月にオープンしました。
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10室の展示室には、大正時代のヨーロッパの家具やオルゴール、また洋画の父といわれるこの地出身の山本芳翠の油絵も展示され、時代にちなんだ企画展が催されています。他にも、大正時代に関する資料などの企画展示も定期的に行っています。 - 秋葉神社
秋葉神社
城山と谷をへだてた山麓にあり、天神神社と同じように保塁砦の役割を果たしていた。また、火の神で、遠州秋葉神社からの分祀で今も毎年春になると代参の者が本社に参詣しお札を受け、各戸に配る風習が残っている。
- 旧三宅家
旧三宅家
300年を超える歴史を持つこの旧宅は、明智町の馬木地内にありました。記録によれば、旗本明智遠山家に仕えた四代伊賢が馬木村に移住、農業に従事。
その後、元禄元年(1688)五代与次郎重正によって母屋が普請されました。度々の増改築がほどこされました。平成3年明智町に寄贈され、平成4年春、現在地に復元移築されました。重厚な旧家のたたずまいで、現在は恵那市指定文化財。 - 天神神社 伝光秀公学問所
天神神社 伝秀光公学問所
明智町の南端、万ヶ洞に、明智光秀公の若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われている学問所がある。
その右隣には九州の太宰府で延喜3年(903年)2月25日59歳で亡くなった菅原道真公を祀っている天神社がある。明智城の築城後、城下の安泰を願うものとして建てられ、悪霊からの守護とともに、学問の神様としても信仰を集め今も毎年春に地元の人の手よって祭典が行われている。 - 明知城跡
明知城跡
宝治元年(1247)源頼朝の重臣、加藤次景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であった。
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天険の地形を巧みに利用した山城で、土盛砦として保塁数大小23ヶ所を備え、原型のまま残されているのは日本でも数少ない山城として県の指定文化財となっている。(標高530m)
天正2年春(1574)武田勝頼二万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張、遠江、駿河への拠点明知城を目指す。城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵五百とともに之を護る。信長、事の重大さを思い明知城を授けんと、子、信忠とともに兵三万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも、武田の将、山県三朗兵衛景昌千騎を以って信長の退路を断つ。信長山岳戦の不利を思い、動かずやがて兵を引く。援軍を失った明知城は、落城した。
1582年家康に従った利景は関ヶ原合戦後の慶長五年(1600年)家康の命により明智城へ戻り、慶長八年明智を本領とする朱印状を賜ることが出来た。
しかし、元和元年(1615年)方景は旗本として江戸に屋敷が与えられる事になり、明智城は廃城となるが、代わりに麗の大手門近くに代官屋敷が設けられたものである。
- 代官所陣屋跡
代官所陣屋跡
元和元年(1615)旗本二代領主方景に江戸邸が与えられ、明知城は廃城となり、かわりに城山下の大手門近くに陣屋がおかれることになった。この門が大手門跡である。
旗本遠山氏の御陣屋として、代官が江戸時代から明治の大政奉還まで行政を行ったところである。土蔵と村上氏の代官屋敷はいまもそのまま昔の面影をとどめ、ひっそりとした中に江戸時代の風情が偲ばれる。旗本遠山氏の領地は六、五三一石六斗。旗本五千騎のうち、六千石以上の知行は五十指に満たない。 - 大正の歯科医院跡
大正の歯科医院跡
大正時代にモダン建築として評判であった元歯科医院は、旧交番の向かい側に現在も当時のまま建っています。格式のある門構えに独特の屋根ベランダを備えた建物には、大正ロマンの香りが漂っています。
- 岐阜県指定文化財 金弊社八王子神社
岐阜県指定文化財 金弊社八王子神社
天正二年(1574年)三月武田勢のために、城と共に焼かれ(戦況記録別記一号)慶長八年(1603)十三代利景明知城再興、旧領安堵の御朱印拝受より、新たに社殿を再建した。
その後延宝四年(1676年)旗本四代遠山半九郎伊次公によつて、建築費七百両をかけて現在の社殿が造営されたのである。再建の記録が残されているが、当時としては実に豪華なもので星霜300年余を経た今日、昔の姿のままであることは、誠に驚異に値するものである。尚唐門は県の重要文化財に指定されている。
また、万葉の歌人『柿本人麻呂』を祭神とする社がある。詳細は不明であるが、 伝承によれば文武の道を志す明智光秀が神社内に人麻呂社をまつり、社前に紅葉「楓」を手植えしたと伝えられる。長年の風雪に耐えかねて昭和39年枯死してしまい、現在の楓はその時に植え替えたものである。 - 遠山家累代の墓所
遠山家累代の墓所
龍護寺の西側に、明智の旗本領主遠山氏代々の墓が十基並んでいる。
古くから東濃の豪族として、明智を領していたが1572年に武田軍に攻められ戦死した明智城主遠山景行から始まり、その次男遠山利景が徳川に仕えて関ヶ原の戦いで戦功を上げ6531石を受領し、旗本遠山氏初代となる。そして旗本11代領主遠山景高は安芸守となり浦賀奉行を務め、ペリーの日米和親条約などで活躍した。
また、遠山氏の墓が並ぶ正面に、江戸の名奉行『遠山の金さん』こと遠山金四郎の業績を称えて合祀されていると言われる墓所もある。 - 龍護寺
龍護寺
大永元年(1521)ここ塔仙坊に楞厳院という草庵があり、柏庭和上が住んでいた。
この人は京都妙心寺にいたが、三河旭村の三玄寺を経て当地に落ち着いたといわれている。慶長元年(1596)明智城主遠山利景は、城の北に浄地を選んで禅刹一宇を建立。そして楞厳院を改め龍護寺とした。この時の和尚椽室がいわゆる中興の開山である。建立の直後、覚岩和尚が法詞をついで第一世となった。この時以来、龍護寺は代々遠山氏の菩提寺となった。寺の本堂横に遠山氏累代の墓がある。また山門入口右手に、光秀公の供養塔と伝えられる碑が建っているが、光秀公に関する碑はその「悲痛な想い」でことごとく割れるといった通説の通り、斜めに大きくひび割れが入っている。
また龍護寺には九条衣の伝承がある。これはその昔、或る夜落武者が訪れ、無念の主君光秀公の直垂を持参し、永代供養を乞うて去った。それ以来、九条衣と称ばれる袈裟の四隅に、この光秀公の直垂の布が縫いこまれ、寺宝として伝えられている。この九条衣は、毎年光秀まつりの日に、その供養を兼ねて一般に展観される。 - 光秀公供養塔
光秀公供養塔
龍護寺に入って右側にある苔むした石塔が、明智光秀公の墓である。
いつ建てられたかは定かでなく、石塔にも ただ「南無阿弥陀仏」の六文字が辛うじて読めるだけである。
寺の言い伝えによれば、光秀公の菩提を弔うために建てられたもので、逆臣としての当時の避難を恐れたために、この様にひっそりと建てられたそうである。
石塔は途中で斜めに割れているが、光秀公に関係する石碑は、何故かいずれもこの様に割れていると言い伝えられている。 - 逓信資料館
逓信資料館
明治8年開局、同30年には電信・電話業務も兼ねたという、この地方の草分けともいえる郵便局です。大正時代、出庇に欄間風の彫り物を配し、局舎全体をペンキ塗りにした装いは、数少ないモダン建築の一つでした。2階の彫り物のある手すりもそのまま残っていて、大正生まれの郷愁を誘います。
- 日本大正村資料館 大正の館
日本大正村資料館 大正の館
明治末期の建築で、この地方の城にも匹敵する町のシンボル「銀行蔵」と、南隣りの「大正の館」を含む一郭がその中心です。いずれも建築物そのものが重要な資料です。この中にさまざまな大正文化の資料を展示しており、季節や催しによって展示替えされます。
大正の館
明治末期の建築で、この地の名門橋本邸跡です。当初米穀商を営み、のちに医院を開業しました。大正、昭和と80余年の名家の生活がしのばれる重厚なたたずまいです。資料館「銀行蔵」とは裏でつながっています。
詳しくはこちら - うかれ横丁
うかれ横丁
この路地は、中馬街道の一部で、生糸生産のさかんな頃は、旅人や馬子を相手に酒やうどんを売る店が並んでいました。誰が名付けたか「うかれ横丁」。
昔懐かしい面影を残す通りです。通りには道路を跨ぐ渡り廊下のある家もあります。 - 大正時代館
- 喫茶天久
喫茶天久
隣接する「カフェー天久」は大正末期から昭和初期に多くの文化人を常連とした当時そのままに、今も喫茶店として現役です。
- 旧街道の交差点
旧街道の交差点
この街道を東へたどれば伊那路から塩尻へ。西は尾張へ。南へ下れば奥三河から岡崎へ。北は中山道へ。
この辻は南北街道と中馬街道の出遇いの辻。かつては馬子の唄声や、お伊勢参りの人たちで賑わった宿場の中心でした。 - 明智回想法センター「想い出学校」
明智回想法センター「想い出学校」
「明智回想法センター」は、大正初期に開業された「大塩医院」という産婦人科の病棟でした。現在は、高齢者の方が懐かしい思い出を語り合って脳を活性化し、
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生き生きとした毎日を送るためのお手伝いをする「回想法」の、実践・研修・普及促進を行う施設となっています。
木造校舎を思わせる二階建ての建物に、さまざまな懐かしい生活道具を展示しています。また、広い庭は四季折々の花々が美しく、心を和ませてくれます。
懐かしい昔の暮らしに思いを馳せながら、ゆったりと流れるひとときをお楽しみください。 - お牧の方墓所 (秀光公の母堂)
お牧の方墓所 (秀光公の母堂)
非業の最期を遂げたと言われている明智光秀公のご母堂、お牧の方の墓所と言われている。
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寛保三年(1743年)に建てられたこの石塔は、当時の世評を配慮してか、光秀公と同じく「南無阿弥陀如来」と だけ刻んである。傍らにそびえる老樹・高野槇の巨木は、樹齢数百年を重ね、神木として崇拝され近郷近在の人々の厚い 尊敬の信仰を集め古くから「甘酒まつり」が行われており、これはお牧の方の供養として今も続けられている。
そして、入り口には日本大正村助役森省三氏の寄贈された「敵は本能寺にあり」と刻まれた石塔がある。 - 下ヶ渕のかえで
下ヶ渕のかえで
明智川沿いの下ヶ淵のカエデ並木は昭和9年の国鉄明知線の開通記念に植樹されたもの。川沿い一面が真っ赤に染まり、燃え立つような紅葉が見事です。
見頃時期:11月中旬~11月下旬 - 千畳山弘法大師
千畳山弘法大師
明智城主が宝治元年(1247年)に築城された頃、西南の方角に当たる千畳敷台地は戦略上、重要な地点として砦を築いたと伝えられている。
山の上から南北街道を一望に見下ろせるこの砦は、いざ戦いとなればたちまち明智城の前線基地となり、戦国時代の天正年間には遠山家の一族、串原五郎経景がこの砦を(落合砦とも言われる)守ったと伝えられている。 - 光秀公産湯の井戸
光秀公産湯の井戸
伝承によれば明智家11代光秀は、大永六年(1526)3月10日ここで生まれた。
当時千畳敷には明知城があったといわれ、この井戸が「光秀産湯の井戸」といわれている。又、この井戸より宝珠を得、これを祭ったのがえびす神社であり、この後の山の頂上にある。 - おみやげ処 よってっ亭
おみやげ処 よってっ亭
大正村無料駐車場内のおみやげ処「よってっ亭」。恵那市特産品や、ソフトクリームなど販売しています。皆様のご来店お待ちしております。
- 大正村浪漫亭
大正村浪漫亭
明治と昭和の間にほんの少しだけ生まれた大正という時代。
わずか15年という大正時代は、激動の15年でもありました。
デモクラシー、洋食、モダンガール...多くの言葉が大正時代に生まれ、今の日本の礎となっています。
浪漫亭は、そんな大正時代を知り、見て、味わい、楽しめる場所として、今年10月27日にリニューアルオープン。
ロゴは、丸を組み合わせて出来るマークが、どの部分を切り取っても、同じイメージになる模様を使用し、
民間、行政、自治体、観光客が混じり合う大正村のイメージを制作しました。 - 明智駅
明智駅
明知鉄道の明智駅です。公共交通機関で来られた方は、ここが観光のスタートになります。
明智駅内で観光マップをもらうことができます。またイベント列車の終点になります。
おすすめモデルコース

おすすめ散策コース
大正時代にタイムスリップしたような懐かしい町並みをゆったりと散策するコース。代表的な観光スポットやお店を効率よく巡って、町の魅力を存分に味わってください!

なりきりハイカラさんコース
矢絣はかま体験の衣装を着て散策できる「なりきりハイカラさんコース」。歴史と情緒あふれる町並みを、雰囲気に合うはかまを着て散策しながら、お気に入りの場所でシャッターをパチリ。観光気分も盛り上がりますよね

史跡・歴史探訪コース
当地の伝説によれば戦国武将 明智光秀公がしばらくいたといわれています。身近な史跡や歴史に触れながらカメラ片手に、遠い記憶にある懐かしい町並みにタイムスリップしてみませんか?

団体様コース
大正村の定番スポットを地元のボランティアガイドと一緒に散策します。懐かしさが残る街並みと、温かく人情溢れる「まち歩き」が楽しめます。

大正村明智の森
大正村明智の森では、年間を通して季節の花木をご覧いただくことができます。
日本大正村ボランティアガイド
無料のボランティアガイド
自由に散策して懐かしいものを発見する楽しさも日本大正村にはありますが、団体様向けに無料のボランティアガイドがご案内することもできます。
ボランティアガイドは施設の紹介だけでなく、昔話をまじえながら皆様と大正の時代へとご案内いたします。
所要時間は約2時間ほどです。また、10名以上の団体に限ります。ボランティアガイドをご利用いただくには予約が必要となりますので、お電話か団体予約のページからお申し込みください。
- 0573-54-3944
- 0573-54-4504
- 団体のご予約はこちらから
- モデルコースをご紹介します。
ボランティアガイドの成り立ち
昭和58年、地域有志が残された古い建物や街道、家並みを保存するとともに、大正という時代が包蔵する文化を掘り起こし、現代の忘れ物、「ボランティアの原点」を基本に大正村を発足させました。
以来、大正時代のイメージと心を呼び物として、全国の人々が時代を忍び郷愁を求めるメッカとなることを究極の目的とする大正村運動は、次第に地域住民に波及していき、その一環としてボランティアガイド組織が設立されました。